橋本左内
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熱き幕末志士の原点
一、稚心を去る
一、気を振るう
一、志を立てる
一、学に勉む
一、交友を選ぶ
この五項目からなる『啓発録』は、学問を志した橋本左内が自らが生きていく上での心構えを綴ったもの。15歳の早熟な少年が立てたこの誓いは、彼の出発点であり、後の活躍の礎にもなりました。
幼いころから才覚を発揮
福井城下常磐町(現在の福井市春山2丁目)で、左内は藩医の長男として生まれました。
藩の医学校で漢方医学を学んだのち、16歳で大坂の緒方洪庵(おがたこうあん)が開いた適塾へ入門し、蘭学を学びます。その後、さらなる勉学のため、江戸へ。
活躍は福井藩を超えて
江戸に赴いた左内は蘭学や漢学を学ぶ一方、西欧の本を次々と読破して、世界へと視野を広げました。多くの志士たちと親交を結び、自らの思想を完成させていったのです。
そんな左内の才覚を藩主・松平春嶽は見逃しません。1857(安政4)年、24歳で藩校明道館の改革を命じられ、その大役を果たしたのです。
新しい日本を目指して
左内は積極的に開国を推進する立場で活躍し、また、一橋慶喜を次期将軍にすべく、春嶽とともに奔走します。しかし、それに対立する井伊直弼が大老に就任すると、世に言う「安政の大獄」で捕らえられ、幽囚生活の後、1859(安政6)年10月7日、26歳の若さで斬首されてしまいます。
その後日本が進んだ進路は左内も提唱した「富国強兵」「開国通商」そのものでした。激動の幕末明治期は、常に左内の志とともにあったのです。