渋沢栄一で注目!お札のふるさと越前和紙
越前和紙はお札に関わる逸話が多く、越前和紙の里は「お札のふるさと」と言えます。2024年の渋沢栄一氏の新紙幣で注目を浴びている越前和紙についての逸話を紹介します。
川上御前の伝説
最高の品質と技術を誇る越前和紙。1500年という長い歴史を持ち、その発祥については次のような伝説が伝えられています。
継体天皇が越前におられ、男大迹王(おおとのおう)と呼ばれていた頃、岡太川の上流に美しい姫が現れました。姫は「この地は清らかな谷水に恵まれているので、紙を漉いて生計を立てよ」と、紙漉きの技を里人にねんごろに教えられました。里人は喜び、姫に名を問うと「 岡太川の川上に住むもの」と答え、姿を消してしまいます。
それから里人はこの女神を川上御前とあがめ、岡太神社を建ててお祀りし、その教えに背くことなく紙漉きの技を現在に伝えているのです。
日本最古の藩札や「太政官札」に採用
奈良の正倉院の古文書には、4〜5世紀ころには既に越前で和紙を漉いていたことが示されています。最初は写経用紙を漉いていたとされ、その後公武士階級が紙を大量に使いだすと紙漉きの技術や生産量が向上。「越前奉書」など最高品質を誇る紙の産地として、幕府、領主の保護を受けて発展してきました。
戦国時代の三英傑も越前和紙を重視しました。紙の流通を安堵する証しとして織田信長の七宝の印、豊臣秀吉の桐紋の印、徳川将軍家の印が使用され、今も三田村家に現存しています。また、明智光秀の人生を描いた「明智軍記」にも、織田信長に仕える際に「大瀧の髪結紙と府中の雲紙を献上した」との記載があります。
1661(寛文元)年には、福井藩が発行した「福井藩札」(現存する藩札としては最古)に越前和紙が採用されます。
坂本龍馬は、由利公正を明治新政府の会計係判事(明治政府の初代財務担当責任者)に推薦し、岩倉具視が由利を就任させます。由利は財政基盤の整っていない新政府の収入を確保するため、1868 (慶応 4)年、日本最初の全国紙幣である「太政官札」を福井の越前和紙を使い発行、明治2年7月までに4800万両が発行されることとなります。
1923(大正12)年には今立町(現越前市)にある大瀧神社の紙祖神「川上御前」が大蔵省印刷局抄紙部に分祀されました。以来、川上御前は全国の製紙業の守護神とされ、岡太神社は名実共に全国紙業界の総鎮守となりました。
現存の紙幣にも使われる、越前和紙の技法「すかし」
お札に必ず入っている「すかし」。光にかざすと肖像画が現れ、お札が本物であることを証明する製紙技術です。
実は、現在のお札にも使われているこの透かし技術は、もともと越前和紙に伝わる技法が採用された「白黒すかし」という技法です。今なお研究開発が続く日本のすかし技術とその表現力は、世界からも高い評価を得るまでになっています。
ちなみに、現在においても、「すき入紙製造取締法」により、文様に関わらず黒透かしの技法を使った紙を製造する場合、又は、白透かしで紙幣や政府発行の証書などに使われている模様のある紙を製造する場合は、日本国政府の許可を要し、それに反すると罰せられることとなっています。
日本で唯一、紙の神を祀る神社。
岡太神社・大瀧神社は、山頂にある奥の院と山のふもとに建つ里宮からなる神社で、奥の院は「延喜式神名帳」(926年)にも記載されており、日本で唯一の紙の神様、川上御前が祀られています。2019年には、白山信仰の開祖である泰澄大師が神社の前身である大滝寺を建立してから1300年を迎えました。
現在の本殿、拝殿は天保14(1843)年に建立されたものです。大久保勘左衛門(代表作は曹洞宗本山永平寺の勅使門(唐門))棟梁による、複雑な曲面を持つ積層した屋根が特徴的で、「日本一複雑な屋根」とされており、国の重要文化財の指定を受けています。
現在では、写真映えスポットとして注目されているとともに、御朱印も人気を集めています。