杣山城跡
標高492メートルの杣山は、かつては北の比叡山と呼ばれ、南北朝時代には南朝方の拠点になるなど、多くの戦乱の場所になったところです。北陸自動車道を見下ろす城郭は鎌倉末期から瓜生氏の居城となり、南朝方の忠臣であった瓜生保の死後は新田義貞が立て籠もりました。一帯には袿掛岩や姫穴、殿池など、当時の面影がしのばれる場所が点在しています。現在では自然と一体になったハイキングコースが整備されており、歴史の跡を訪ねながらの散策におすすめです。
杣山城の概要
杣山城は南越盆地の南端、日野川の狭い谷に南条山地の山が迫り、北陸道が通過する交通の要所に位置しています。日野川の東側に阿久和谷と宅良谷に挟まれて杣山があり、その珪岩の山容は険しく天険の地であります。杣山山頂には山城が存在し、標高492メートルの「本丸」を中心として東西に「東御殿」「西御殿」と呼ばれる曲輪が築かれています。
山麓には城主の館があったとされ、土塁(一ノ城戸)や礎石建物跡が残る「居館跡」が存在します。
杣山城は、山城が存在する城山と山麓城下の一部約170ヘクタールが、昭和9年と昭和54年に国史跡の指定を受けています。
杣山城の歴史
杣山城は、中世の荘園「杣山庄」に立地する山城です。「杣山庄」の名は鎌倉時代の古文書に見え、後鳥羽上皇の生母七条院の所領で、安貞2年(1228)8月上皇の後宮の修明門院に譲られ、その後、大覚寺統に伝えられました。この「杣山庄」は、公家領荘園として中世を通じて公家関係者が知行しました。
山城は、鎌倉時代末期、瓜生保の父・衡が越後の三島郡瓜生村からこの地に移り築城したといわれています。以来、金ヶ崎・鉢伏・木ノ芽峠・燧などの諸城とともに越前の玄関口となりました。
延元元年(1336)、新田義貞が恒良・尊良両親王を金ヶ崎城に入ると、瓜生一族は金ヶ崎城を援護しました。『太平記』によれば、延元2年(1337)正月11日、金ヶ崎城を救うため出兵した瓜生保は、敦賀市樫曲付近で戦死したといわれています。『得江頼員軍忠状』によれば、暦応元年(1341)6月25日夜、杣山城が落城していています。その後、足利(斯波)高経が在城しましたが、貞治6年(1367)7月、高経は杣山城で病没しました。ついで斯波氏の家老で越前国守護代を歴任した甲斐氏が拠って朝倉氏と対峙しましたが、文明6年(1474)正月日野川の合戦に敗れ落城しました。朝倉氏の時代には、その家臣・河合安芸守宗清が在城しましたが、天正元年(1573)、織田信長の北陸攻めにより廃城となりました。その後、天正2年(1574)には一向一揆が杣山に拠ったとされますが、詳細は不明です。
山城
山城部分は、昭和45年から50年にかけて発掘調査・整備事業が行われました。現在は復元された礎石建物跡などを見ることができるようになっています。
本丸
標高492メートルの山頂に位置しています。 城下の様子が一望でき、木ノ芽峠を越えて攻めてきた敵の様子を窺い知ることができるため、越前の玄関口としての要衝となりました。
東御殿
南北に長い約600平方メートルの不整形な平坦地で、礎石建物跡が残っています。
西御殿・殿池
「西御殿」と称する本丸の西尾根には、大小17の平坦面があります。その中には礎石が見つかった平坦面もあり、何らかの建物が建っていた可能性も考えられます。西御殿には「殿池」と呼ばれる池があり、 水源として利用されていました。
姫穴
新田義貞の妻・匂当内待が一時隠れていた場所といわれています。 袿掛岩 瓜生保が戦死したと聞いた夫人や女房たちが、この絶壁の岩に袿をかけて飛び降り、自害したという言い伝えが残っています。
犬戻り駒返し
険阻な絶壁で、ここまで登りつめてきた犬も馬も登り切ることが出来ず、後戻りをしなければならなかったことからこの名前が付いたといわれています。