燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地(新田塚)
新田義貞の戦没地と伝わる
太平記(巻20)によると、暦応元年(1338)、新田義貞は藤島城の救援に向かおうとした際、燈明寺畷付近で足利方の黒丸城の斯波高経軍と遭遇し、乱戦の中戦死したとされています。
明暦2年(1656)、この付近の水田から偶然農夫が兜(鉄製銀象眼冑)を掘り出し、当時の藩軍学者井原番右エ門がこれを新田義貞のものであると鑑定したことから、この地が義貞の戦没地とされるようになりました。
万治3年(1660)、福井藩四代藩主 松平光通(みつみち)は、「暦応元年閏七月二日 新田義貞戦死此所」と彫った石碑を建立、石玉垣をめぐらし、社殿様の覆舎を造りました。このことからこの地は「新田塚」と呼ばれるようになりました。
昭和40年代に土地中央は国の史跡として文化庁の管理となり、左右は福井市が管理する「新田塚公園」となりました。
※掘り出されたは兜は「伝新田義貞公着用兜」として、福井藩主松平家に献上されたのち、現在は義貞を祀る藤島神社の宝物となっています。
※「太平記」によると、義貞が戦死した知らせはすぐ称念寺(坂井市)に伝えられ、時宗の僧8人が義貞戦死の地に向かい、遺骸を同寺に運んだとされています。
基本情報
- 住所
- 福井県福井市新田塚町
- アクセス
- えちぜん鉄道三国芦原線 八ツ島駅より徒歩7分
- ウェブサイト
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