偉人が歩んだ福井に会いに行く 幕末・明治維新を駆け抜けた由利公正と男たちの軌跡

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「五箇条のご誓文」の草案の起草者であり坂本龍馬とも親交

※この掲載記事は2016年1月のものです

偉人が歩んだ福井に会いに行く 幕末・明治維新を駆け抜けた由利公正と男たちの軌跡

由利公正(ゆりきみまさ)

近代日本の幕開けに活躍

 明治維新の立役者として西郷隆盛や木戸孝允などが挙げられるが、明治維新を支えた人物の中で由利公正(三岡八郎)もその功労者の一人ではないだろうか。
 幕末の福井藩士であった由利公正は、「五箇条の御誓文」の草案の起草者として有名。御誓文は、明治維新の指導精神として、近代国家建設のさまざまな施策に受け継がれた。また、日本で最初の全国通用紙幣である太政官札を発行し、新政府の運営費を賄った。
 福井藩と国の両方で活躍した『由利公正』。数々の業績やエピソードもあり、ここ福井にもゆかりの地が残されている。由利公正とはどういう人物だったのか? その人柄や功績と合わせて、福井で生きた由利公正の軌跡を辿ってみよう。


福井市立郷土歴史博物館蔵


【由利公正の略歴】


文政12年(1829)、福井城下毛矢に生まれる。

福井に来遊した横井小楠の学問に影響を受け、藩財政を研究。殖産興業策を進め、藩財政を黒字化した。

慶応3年(1867)、坂本龍馬が新政府への参画を求め来訪。その後、明治新政府に徴士参与として登用。財政を担当する。

明治元年(1868)、「五箇条の御誓文」の草案を起草。同年、太政官札を発行。従四位下に叙せられる。

明治4年(1871)には、廃藩置県後の初代東京府知事となり、翌年、岩倉欧米視察団に随行

その後、元老院議官、貴族院議員を務める。勲一等を賜る。

明治42年(1909)、81歳で没。


【エピソードで見る由利公正】


坂本龍馬高知県立歴史民俗資料館蔵


 一昨年発見され、全国的なニュースとなった坂本龍馬から後藤象二郎に宛てた手紙には新政府の財政担当者に由利を推す旨の記載がある。
 由利と坂本龍馬とは大変気が合う仲で、龍馬二度目の福井来訪時、足羽川近くの山町の莨屋(たばこや)旅館にて、早朝から深夜まで延々日本の将来を語り合った。当時、謹慎中の公正には立会人として藩士が付き添ったにもかかわらず、龍馬は遠慮せずに「三岡、話すことが山ほどあるぜよ」と叫んだと伝えられる。
 五箇条の御誓文の原文となった「議事之体大意」は龍馬の「船中八策」と思想的な基本が共通している。
 龍馬が福井を離れてから10日後、家老の家に招かれた由利は、帰り道、懐中に忍ばせていた龍馬の写真が無くなっていることに気付く。胸騒ぎがしたその2日後、龍馬の死を知ることとなる。


■横井小楠との運命的な出会い


横井小楠福井市立郷土歴史博物館蔵


 由利は横井小楠の教えに従って、福井藩でも産業奨励を行うことになり、その責任者に選ばれる。「あいつは銭勘定ばかり堪能で、武士にあるまじき振る舞いをしている」と周囲から馬鹿にされてきたが、小楠の出現により、これまでの由利に対する批判が一変する。
 小楠が福井へ赴いた年、弟死亡の知らせで一時帰国することとなった際、由利も熊本に同行し、毎夜、小楠と酒を酌み交わし議論を行った。この3年後、由利は再度熊本に小楠を訪ねている。


■長崎、横浜に福井のアンテナショップ


 由利は長崎に四度出張している。安政5年、物産を興し通商貿易を行って収入を図るよう中根雪江や橋本左内に働きかけ、貿易資本の確保と貿易状況の視察を建議し採用される。
 その後長崎に出張し、唐物商、小曽根乾堂の協力を得て、同所浪ノ平に越前蔵屋敷を設けた。そののち長崎江戸町に福井屋が開設され、そこを拠点に生糸などの輸出が行われる。同じように横浜にも出店が設けられ、販路開拓が図られた。

■紙幣発行のため、京都、大坂で資金集め


 明治新政府は徳川慶喜追討のため、御用金(会計基立金)を集める必要に迫られ、由利がその責任者となる。明治元年、由利は京都の大商人に5万両、大坂の大商人に同じく5万両の調達を命じ、計10万両の御親征費が調達される。
 その後、紙幣の発行により産業振興を図ろうとした由利は、まず大坂でその準備に入る。同年5月には紙幣発行の日が決まったものの、反対論は根強かったため、由利は、「私は覚悟した。(発行されなければ)二条城に保管してある金札に火を付け、自刃する。」と訴え、予定通りの発行にこぎつけた。


■知事公舎も燃えた大火で一念発起


戦前の銀座大通り


明治5年2月26日、和田倉門内兵部省から出火し銀座、京橋さらに三十間堀から築地まで燃え広がり、5千戸、28万余坪を焼き尽くす大火となった。由利の公舎も類焼した。この火事をきっかけに由利は東京不燃化計画を作成し、実現を図った。 由利は、当時のニューヨークやロンドンなど、国際都市の目抜き通り並みに銀座大通りを45.5メートルにすべきだと主張したが、大蔵省側の反対にあい、27.3メートルの拡幅となった。

由利公正ゆかりの地を巡ろう

■由利公正広場(福井市)

由利公正居宅跡に近い足羽川の幸橋南詰上流側にある広場。由利公正の像や坂本龍馬との交流を書いた説明板などがあり、銅像の目線は、公正の恩師である横井小楠の寄留宅跡(幸橋北詰下流側)の方向を向いています。

住所/福井市毛矢1丁目


■由利公正宅跡(福井市)

由利公正が住んでいた跡地。この場所で、横井小楠と坂本竜馬の3人で会談したとされる。現在は石碑のみですが、隣には竜馬の歌碑も建てられています。

住所/福井市毛矢2丁目(幸橋南詰下流側)


■福井城内堀公園(福井市)

福井県庁のあるお堀に面した公園。安政5年(1858)冬に横井小楠と由利公正が一緒に九州へ旅立つ姿を表現した「旅立ちの像」があります。旅の目的は、長崎での物資販売ルートの開拓と言われています。

住所/福井市大手3丁目


■福井県立歴史博物館(福井市)

古代から現代までの福井県の歴史に関する資料を展示しています。また、東京府知事に任命された際の辞令をはじめ、由利公正関連の資料も多数所蔵されています。

住所/福井市大宮2-19-15
問/0776-22-4675
URL/https://www.pref.fukui.lg.jp/muse/Cul-Hist/


■福井県立図書館(福井市)

福井藩の公文書にあたる藩政資料なども多く、由利公正が執筆し、明治政府の国家方針「五箇条の御誓文」の原案となった議事之体大意も所蔵されています。

住所/福井市下馬町51-11
問/0776-33-8860
URL/https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/

福井県立図書館蔵


■福井県立こども歴史文化館(福井市)

福井県の歴史で活躍した人物について、映像や人形ジオラマ、イラスト等で楽しく紹介。由利公正の発案により発行された全国通用紙幣「太政官札」も所蔵しています。

住所/福井市城東1-18-21
問/0776-21-1500
URL/http://info.pref.fukui.jp/koreki/

福井県立こども歴史文化館蔵

人物相関図

■人物相関図

坂本龍馬


高知県立歴史民俗資料館蔵


福井藩と深い関わりを持ち、福井にも2度訪れていると言われている。1回目は、神戸海軍操練所の費用5千両を福井藩主・松平春嶽に借用するため、2度目は、土佐藩主・山内容堂の親書を春嶽公に手渡すため。その際、由利公正と莨屋(たばこや)旅館で新政府について熱く語りあったと言われている。


■莨屋(たばこや)旅館跡

慶應3年に坂本龍馬が宿泊。そこで由利公正と竜馬は会談し、新政府についての構想をはじめ日本の将来について夜明けまで語り合ったと言われています。明治の大火で建物は焼失し、現在は懐石料理の店が建っています。

住所/福井市照手1-14-3


■竜馬歌碑

文久3年に行われた由利公正宅での会談中に、坂本龍馬が詠んだとされる歌が彫られている歌碑。揮毫は坂本家9代目によるもので、石は龍馬の故郷である高知県から取り寄せられたものが使われています。

住所/福井市毛矢1-1(由利公正宅跡隣)

横井小楠

福井市立郷土歴史博物館蔵


安政5年、福井藩主松平春嶽に招聘され、福井藩政治顧問となり、福井藩の藩政改革を指導。由利公正とともに実施した富国策では、大きな成果を挙げ、藩の財政を立て直した。


■横井小楠寄留宅跡

福井藩政治顧問となった横井小楠が福井に訪れた際の寄留宅跡地。坂本龍馬が勝海舟の命で来福した際にこの居宅を訪れています。弟子にあたる由利公正宅とは足羽川を挟んで向かい合っています。

住所/福井市中央3-11(幸橋北詰)


松平春嶽

福井市立郷土歴史博物館蔵


天保14年(1843)、16歳で福井藩主となる。当時の福井藩の財政を、人材登用を手始めに改革を推進。熊本から横井小楠を招き、由利公正に殖産興業を実践させるなどし、藩を再建させる。


■福井城址

徳川家康の次男である結城秀康が初代福井藩主として慶長11年に築城しました。約270年間17代にわたり越前松平家の繁栄の舞台となった名城は、大火によって焼失し現在は石垣と堀の一部だけが残っています。

住所/福井市大手3-17-1


■養浩館庭園

養浩館はかつて福井藩主である越前松平家の別邸でした。その庭園は数奇屋風建築や回遊式林泉庭園をそなえており、江戸時代中期を代表する名園の一つとして広く知られています。

住所/福井市宝永3-11-36
URL/http://www.fukuisan.jp/ja/yokokan/


■福井神社

幕末四賢候一人である福井藩主・松平春嶽を祀っています。戦災後に福井大学工学部の設計により再建された社殿は一般の神社とは異なる外観をもっています。拝殿の左手には、椅子に腰掛けた春嶽の像があります。

住所/福井市大手3-16-1
問/ 0776-22-7662


■福井市立郷土歴史博物館

郷土福井に関する資料の収集に努め、福井市春嶽公記念文庫をはじめとする福井藩、越前松平家に関する資料が充実しています。1階には春嶽の遺品や志士らの史料を中心とした展示がされています。

住所/福井市宝永3-12-1
問/ 0776-21-0489
URL/http://www.history.museum.city.fukui.fukui.jp/

橋本左内

福井市立郷土歴史博物館蔵


福井藩主の松平春嶽に側近として登用され、福井藩の藩政改革の中心として活躍。開国貿易・殖産興業・軍備強化などを目指した改革を行う。


■左内生家跡

現在、橋本左内生誕地の跡には民家が建っていますが、左内の産湯に使われたという産湯井戸跡や、啓発録の石碑が今も残されています。

住所/福井市春山2


■左内公園

この公園には、橋本左内とその両親の墓があります。敷地内にある左内の銅像は市民からの寄付により、昭和38年に建立されたものです。

住所/福井市左内町

橘曙覧

■橘曙覧

福井市橘曙覧記念文学館所蔵


幕末福井の歌人、国学者。28歳(25歳、35歳説あり)で家督を弟に譲り、隠棲して歌と学問に打ち込む。学問は国学を学び、飛騨高山の国学者田中大秀に入門。福井藩主・松平春嶽や京都の女流歌人大田垣蓮月らとの交流が知られている。


■橘曙覧記念文学館

幕末の歌人であり国学者であった橘曙覧。その門下生として由利公正は短歌を学んでいました。文学館は曙覧がかつて住んでいた黄金舎跡に平成12年に開館しました。

住所/福井市足羽1-6-34
問/0776-35-1110
URL/http://www.fukui-rekimachi.jp/tachibana/

日下部太郎

福井市立郷土歴史博物館蔵


弘化2年(1845)、福井城下の江戸上町(現、福井市宝永4丁目)の藩士の家に生まれる。23歳のとき、福井藩第1号の海外留学生となって米国に渡る。成績抜群で、多くの人々から賞賛されたが、学費の不足による苦しい生活と気候風土の違いにより、卒業を目前にして病に倒れ、26歳の若さで世を去った。


■日下部太郎、グリフィス像

日下部太郎は福井藩からのアメリカ留学第一号の生徒でした。横井小楠寄留宅跡の目の前にある堤防に建つその銅像の隣には、留学先の大学の先輩で指導・親交があったグリフィス像が共に建っています。

住所/福井市中央3-14(足羽川幸橋北詰)

グリフィス

福井市立郷土歴史博物館蔵


明治4年(1871)、福井藩からの招聘に応じ、藩校「明新館」における理化学の教師として来福し、多くの若者を指導。国内情勢の変化のため、グリフィスはわずか10か月で福井を離れたが、その後も『皇国』という本の出版をはじめ数多くの講演や執筆活動を行い、アメリカにおける日本の紹介と理解に貢献した。


■福井市グリフィス記念館

福井初の洋風建築であるグリフィス邸を再現。往時の雰囲気そのままに、グリフィスの功績を中心に、幕末の偉人たちを紹介しています。

住所/福井市中央3-5-4
問/0776-50-2911